リツエアクベバ

satomies’s diary

makiさんからトラックバック受信

思わず頷いてしまいました/-D-I-M-

 先日、性教育の講演会なんぞに参加しまして。この講演の中で、こんなお話がありまして。男性の性行動というものは、「興奮→勃起→射精→終了」という一区切りがある、と。
 その辺関連してきて、性被害に関して「事実の被害」ということが中心になってくるのかな、と。
 まあよくある「野良犬に咬まれたと思って忘れろ」的なフレーズってのがあって。これに対して「野良犬に咬まれたことを忘れられるのか」って反論があるわけで。ここで実は、その「野良犬に咬まれる」ということのとらえ方の違い、ってのがあるのではないかと思うわけです。
 つまり、男性の性行動の特徴から考える「野良犬に咬まれた」は結果であり、女性の性行動または性的感受性の特徴から考えるに、性被害で奪われた自己の尊厳を修復していく時間の連続の間中、いわばずっと「野良犬に咬まれ続けている」ということなんではないかと。
 「野良犬に咬まれた」という事実の被害は、そのままではイコール負けなので、勝たなければならない、と。そこで報復、ということが出てくる。自分が大切にしている女性が被害を受けた、ということの当事者でもあるわけで、報復としては勝たなければならない。
 この「勝ち負け行動」に、女性はついていけないところもあるんではないかと。負けとか勝ちとかじゃないわけですよ、尊厳を剥奪されて失ったもの、負った傷、その修復作業こそが大事なわけで。
 この道のりは長い。修復作業というものは本人にしかできない。その修復作業の中で、相手が相当する罰を受けなければならないことだった、と、その線の中に告訴がある。
 性被害の当事者と、自分が大事にしている女性が性被害を受けたという被害当事者と、当事者としての立場が違う。この、持っているカードの混乱を後者の立場の人間が起こすと、被害当事者を苦しめることにもなりかねない。「守る」ということと、カードの混乱とは別のものなんではないか、と思うんですよね。