読む。何度も読む。ひたすら読む。だからどう、ということではなく、読む。聞こえてくるものに耳を傾ける。
23歳で「サバイバー」と、そう自分に対して名付けなければならないのか、と思う。このブログの他のページを繰りながら、向き合わなければならない暗闇を思う。
再び、この設問に戻る。
【セックスは女性にとって、『暴力』でしかないのだろうか?】
もし、ここまで書いたことが正しいとしたら、異性愛男性の僕にとって疑問なのが、
- 女性は「攻め」を「暴力」として捉えることなく受け入れられる相手(恋愛しても良い相手)をどうやって選別しているのか。
- そもそも女性にとって「暴力」と感じられないセックスなんてものが、存在するのか。
「『暴力』でしかないセックスを経験した女性」にとっての、上記の設問の答えはどうなのか、ということ。暴力でしかないセックスを経験していない女性に有効なスイッチは、どこまで有効なのか。「暴力でしかないセックス」ではなく、恋愛関係を築こうとする相手との信頼関係を構築していく中で、そもそも男性性をもつだけで疑われているような感覚に対して、どこまで相手の男性が耐えられるものだろうか。男性性全てに不信感をもつような心を抱えて、どこまでその暗闇を、心を通わせたいと思う男性に隠すことができるのか、また見せることができるのか。
「愛があれば暴力ではない」と認識する女性もいるだろうとも思う。でもそれは、別の側面から見れば、「暴力としか言いようがない」ことを、単に経験していないに過ぎないのではないか、とも思う。
そのことに比べれば「愛」なんてたいしたもんでもない。その愛の定義さえ、「暴力でしかないセックスを経験した女性」にとっては、非常に曖昧な、相手をも傷つけかねない危ういものになる可能性を含んでいるのだから。
経験しているかしていないか。それは実は、どこか紙一重のところがあるのかもしれないと思う。誰だってわたしだって経験したことなのかもしれない。ただ紙一重で経験しなかっただけのことなのかもしれない。
経験していなければわからないことはたくさんあるだろうとも思う。ただ、経験という線で、人との線を切ってしまわないように、ただ何度も読み、耳を傾ける。そこにいるのはもしかしたら、自分だったのかもしれないのだから。