リツエアクベバ

satomies’s diary

それでもボクはやってない

 見ました「それでもボクはやってない」。上映時間は長い。でも見ていた時間の感覚としては短かった、本当に短かった。あっという間に上映が終わった、という感じ。
 この映画の話が書かれた文章のいくつかを、はてなブックマークにピックアップ。

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 字数が足らず、トンマなタグのできあがり。
 この映画、刑事裁判の問題点、冤罪事件はいつでも作られる可能性がある現実、等、非常に見所のある映画だと思う。その上で。
 この映画の登場人物の多くが、どっち側から見るかでその印象が変わる。そのあたりを感想の中に出していったfujiponさんの感想が、わたしは興味深かった。そうか、確かに映画を見ている人は、その「事件」の最中の主人公の手を見ていない。「それでもボクはやってない」というタイトルから与えられるお約束的印象からスタートしているのだな、と思った。
 では、「アイツがやった」という印象からスタートしていたならば、ということ。警察・検察は、常にそこから動くことで業務を合理化しているところがあるのかもしれない。そこから動かなければならないほど、冤罪ではない本当の罪をもつ人間の言い逃れが日常化しているのだろうということ。また「やっただろう」という決めつけ的態度により、相手を追い込むことができるということもあるのだろう。実際、映画は冒頭で、「やってない」と堂々と言う人間を落とすところから始まっているのだから。
 その「多数」の中の一人に、濡れ衣をきせられる方の不幸が存在する。『十人の真犯人を逃がすとも一人の無辜を罰するなかれ』という言葉は重い。
 欺かれはしない、という姿勢でやりとりされる裁判シーンの連続。証人のひとつの言葉のほんの端々が、検察と弁護の戦いの材料にされる。見ているこちらまで、些細な表現に敏感になる。そのムードは観客にも与えられ、最後の証人の証言シーンで、判決に含まれたこの証言の解釈のポイントに気づいた人も多いと思う。
 ブックマークに入れた中で、実際に痴漢冤罪裁判を経験した方の、以下の記述が、この映画を見たからこそわかる実感として伝わってくるような気がした。

 また精神的なダメージも相当なものでした。例えば「台所の電気つけっぱなしだったでしょう?」というような些細な嫌疑にさえ、「絶対オレじゃない!第一ゆうべ最後にここに来たのは・・」という具合に「過剰な自己弁護」をしてしまうという症状?に悩まされました。
周防正行監督の「それでもボクはやってない」の試写会に行ってきました。|鈴木健夫の-福音的-腹立ち日記

 冤罪を巡る中で。「信じる」という人間関係が存在することの大切さ、などということも印象に残る。登場する「別れた彼女」が、彼の無実を信頼し、その濡れ衣をはらすための尽力。主人公にずっと寄り添い続ける友人。人間関係のありがたさなども記憶に残る。