リツエアクベバ

satomies’s diary

悪くないよ

はてなブックマーク > 東京横浜ジャムセッション > 2007年01月19日
S嬢 はてな - ぬはははは、と、ちょっと自分の文章にこっぱずかしがる。
2007年01月19日 『「惚れたが悪いか。」。悪くないよ。』そう、この言葉が欲しいのではないのか、と思う:自家中毒から救われる方法はただひとつ。認識の変化のみであり、それは“許されること”によってでしか発生し得ない。

 おほしさまの人のブクマコメントはおもしろい。「小さなトカゲ展」のお気に入りに加わったのを見て、ふふふ、と思う。
 「悪くないよ」。ここに反応したか、おほしさまの人は。と思う。「惚れたが悪いか」、ああ悪くないね。悪くないね、そう言いたいために、このフレーズの引用として使われた大元の太宰の「御伽草子」を、青空文庫に再読に行く(青空文庫:「御伽草子」)。しかしなんというか、この狸、めっちゃくちゃやられっぱなし、この兎、悪すぎ。
 世の女性に潜む兎は、御伽草子の兎よりももっと巧妙だと思う。狸を狸と思っていないところがミソ。狸を大事に思っているまたは思っているように見せるまたは思っていると思いこんでいるところがミソ。
 兎と狸の化かし合い。これがわかっているような狸ならば、兎の可愛らしさなんてとこに落ち着くのだろうと思う。でもさ、そんなことがわかっているような狸は狸じゃないって、むしろ狐。
 御伽草子の狸は、兎に向かって「惚れたが悪いか」と言って沈むけれど、たいがいの狸は兎にではなく天を仰ぎ「惚れたが悪いか」とつぶやく。そして下を向き、兎に翻弄されたオノレを責める。バカみたいだバカみたいだバカみたいだ、と自嘲しながら。
 そして友人には言えるけれど、当の兎には言えない。「オマエだって悪いじゃないか」。
 オマエだって悪いじゃないか、オマエだって悪いじゃないか、オマエだって悪いじゃないか。そう口に出してしまったら最後、結局は自分に返る。「それにのったオレがバカなんだ」と。
 ふうむと思う。結果だけが全てなのか、経過ってのはどうなんだ、と。「惚れたが悪いか」。悪いだのいいだのってことの前に、その「惚れた」ってのはどうなんだ。その「惚れた」って認識ってのはどうなんだ。その「惚れた」って精神世界で踊った心ってのは、自嘲と共にどこかに捨て去られてしまうのか。その心ってのの体験なんてことは、捨て去られてしまうほどつまんないものだったのか。
 人を好きになりたい、人を好きになってみたい、なんてこと、一度も思わなかった人ってのは、それはそれでいいんじゃないかと思う、結果がダメだったよと、その心全て捨て去ってしまっても。
 でもそのさなか、って、どんなことを思ってた?どんな感じを体験ってできた? なんてそんな風に思うんだけどな。
 スピッツ空も飛べるはずって曲の歌詞のこの部分「君と出会った奇蹟がこの胸にあふれてる きっと今は自由に空も飛べるはず」。わたしはスピッツってのは、声の感じがあんまり好きじゃないんだけど、この歌詞はすっげ〜と思った。簡単に端的に踊る心ってのを言っちゃったよ、という感じ。
 踊る心、ってのは、残念ながら一人で体験するには難しいって要素がある。誰か、しかも自分の心を揺らしてくれる人間の存在が必要だったりする。その踊る心ってのを持った根拠なんてものが砂の城のように流れてしまったとしても、自分の中の「心が踊った経験」ってものは簡単には消えないと思う。それを流して消してしまうかどうかは、当事者の選択だと思う。でもわたしは思う、心が踊るってのは悪くないよ。「惚れたが悪いか」うるせーな、悪くないよ。って、わたしは思う。他の誰がどう思おうと、わたしはそう思うんだな。