帰省している義妹一家と未婚の義妹と総勢10名でぞろぞろと中華街にお出かけ。
前日、明日はみんなで電車でお出かけだよと娘に言う。朝、「スカート」と娘は言い、スカートをはく。お出かけ用のピンクのセーターとスカートに、紺の長めのハイソックス。
玄関でごそごそと自分でブーツを出して履いているので夫とおおと言い合う。いただきものでちょびっとヒールのあるオシャレなヤツ。いわゆるダウン症ってヤツの傾向とその対策なんてのから、靴に関しては足によいものと値段を考えずにコンフォートシューズってヤツを心がけてきたわけで、そういう線から言ったらこの靴はオシャレだけれど細身過ぎていいのかこれはいいのかこれでいいのか的な靴。ヒールのある靴を履いての歩行だってまだまだ下手くそで、疲れるだろコレは的なとこのある靴。でもそれを自分で出してきたわけだ、そうかそうか、では履いていけ、お出かけだもんな。
だいたい女の子のオシャレってのは、そりゃ寒いだろそりゃきついだろそりゃ歩きにくいだろ、なんて要素が入るものはちょこちょこあるもので。そんなこたわかってるもんでもこれがいいんだもん、なんてことで女の子のオシャレってのは成り立ってるわけで。
だからその線で言えば、どうしても障害児の女の子の外見ってのはダサダサになりやすいんではないかと思う。動きやすくて履きやすくて疲れなくてラクで、なんてのはたいがいにおいてダサダサなものが入ってきやすいし、ダサダサってのがわかっていても、親がそりゃ寒いだろそりゃきついだろそりゃ歩きにくいだろなんてのを「お出かけだからコレね」なんてのは、ちょっとそれはそれなりに些細な虐待なんてのをちょびっと感じたりしてしまうとこもあるよなとも思う。障害があるって事実の前でそれに反する何かをさせるってことに人間的にビビるなんてのはいわゆる親って立場でも同じこと。オマエ外見のためにちょこっと無理せ〜よ、とは言えないよなってとこ、あるよと思う。
それがちょびっと息吸ってきゅっとしめるスカートを自分で選んではきたがったり、それ足疲れるよなんて細身のヒールのある靴を履きたがったりすると、そかそかそうかなんて目を細めてしまうとこもあるわけだ。
で、まあその靴で一日歩く。歩く後ろ姿を眺めながら、ちょこっとのヒールの歩きにくさで、ダウン症の足的傾向の内反足気味な歩き方ってのを観察。要するにアイススケートの靴を履いて危なっかしげにリンクに立ったときのような、足の重心が内側に入る感じ。筋肉の弱さと関節の柔らかさから出てくるような傾向。この手の靴を履きたがったら、その靴用に土踏まずをもこっと上げた状態の中敷きなんぞを用意してやらなきゃなるまいな、などと思う。
ところがどっこい、帰る頃にはその内反足気味な歩き方ではなくなっている。要するに靴に合わせて足にかける力を工夫し始めたわけだ。へ〜。靴で足が小さな筋トレを始めたようなもの。
やるじゃん、とか思う。そうだよね、とも思う。動きやすくて履きやすくて疲れなくてラクで、なんてのを選ぶってのは別称で言えば「オバサン化」とも言えるわけで。日常的なものに障害を加味したものを選ぶってのはもちろんとても重要なことだけれど、10代を謳歌満喫する時期にそっち路線にばっか走るこたない。オシャレしたい気分なときに適度なとこで無理しちゃうよってのを覚えるってのもよいんじゃないかとも思う。障害って分野でいえば、これも立派なQOLなんだろう。
そんなモチベーションをもてる環境、ってのもあるとも思う。障害児の集団ってのは、まあ前述の理由ってヤツでダサダサ集団にもなりやすいわけで。年齢が上がれば上がるほど、同年齢の自分の行動モデルとしての対象を見る機会も減っていく。そういう意味でも、自分の目でナマで社会を日常的に見る機会として、公共の交通機関を使った通学ってのの意義はでかいとも思う。
障害という分野での体験としては、支援者という立場にいてくださる方はどうしてもオバサン年齢の方も多い。若手ボランティアってのの意義ってのはやっぱり重要なんだなとも思う。
いや他力本願ばっかじゃなくて、自分自身もこのあたりの事情を加味してオバサン化ダサダサ路線の回避にまあがんばる、かな。かーちゃんってのは女の子の障害児にとって、もっとも身近な「女性モデル」なんだしね。