リツエアクベバ

satomies’s diary

うん、わかった

 わたしはジーザス・クライスト・スーパースターという古い映画が好きなのよ。
 と友人に言ったのは、ほんの数日前のことだと思う。その映画に出てくる曲の歌詞の翻訳がセックスなんてくそくらえというブログにぽんと記述されていて、わたしは本当に驚いた。タイミングってのはあるものだ、とも思った。
 わたしはジーザス・クライスト・スーパースターという映画が好きなのよ。でも簡単には語れない。そこでそのままになっていたことが、揺り動かされて進んでいく。
 その訳は、わたしを揺り動かす。揺り動かされて感想を出す。その感想に反応が出る。

 たまには褒められたものも紹介しておこう/真昼からシャセイ日記(「セックスなんてくそくらえ」管理人日記)
 個人的な話をすると、僕にとってあの映画はカール・アンダーソンのユダなしには語れない。

 そこに記載された言葉に、わたしは「うん、わかった」と返答する。
 「うん、わかった」。これは字面の理解ということではなく、わたしが読んできた彼の過去の文章群、そして今後生まれるだろう文章群に対しての、ある了解を表明したということ。
 この了解の原点を彼本人が持ち続ける限り、わたしは彼の読者でいるんだろうと思った。
 そんなことを思っていたら、新しい彼の文章がウェブ上にあがる。ああ、あのさ。と思う。なんだってコイツはこういうものをもってくるんだろうと思う、いい意味で。
 僕の名は正午/セックスなんてくそくらえ
 十代の終わりから数年、真剣な恋愛というものをやった相手。そしてその恋愛は終わり、人間関係上接点をもつ機会のある相手という、いわゆる「元彼」というヤツ。その彼がわたしの子どもに知的障害があるということを知って言ったこと。
 Sが知的障害児を生んだということを聞いて、それはもしかしたら自分の子どもだったのかもしれないと思った。不謹慎かもしれないが、言っていいことかどうかわからないが、自分はその事実をうらやましいと思った。
 そして付け加えた「ほら、オレ、大江健三郎が好きだっただろ」と。
 この付け加えた言葉を聞いて、ああだからわたしたちの恋愛はダメになったのだと思った。知らないよそんなこと、聞いたこと無いよ。それを言う隙も無いほどに、彼は当然のように言った。彼は何もかも自分のことを知っていてくれる相手という、とてもしあわせな誤解をしていたのだと思った。
 彼はものを書く人間だった。創造というものを持つ持とうとする者が携える業を持った人間だった。そのこととは別の要因でこの恋愛は壊れていったけれど、それがその業がいつか退化していくことを自ら認めていき、平和な生活を選んでいった。そこに入ってきた、未熟なしかし様々なエネルギーをもっていた時代の恋人が知的障害児を生んだという話。この話に彼がどんなことを思い、どんな風に感じていったのか。それはわたしにはもう興味は無い。付け加えられた一言は、本人の意図とは無関係に、そんな感覚をわたしに与えた。
 でも本当に興味が無いのかどうかは、実際はわからない。この日からわたしは、大江作品を読み始めた。