リツエアクベバ

satomies’s diary

自分を考える、ということは

 自分を考える、自分を見つめる、ということは、自分の性をとらえるということでもあると思う。自分の中の性をとらえるということは、自分を考える、自分を見つめる、ということでもあると思う。

 「「女性」が「女性」に対してどのような眼差しを向け、内面化しているのか」というテーマのもとに、それを直接的に性格や思想を聞くのではなくて、「対象に対する趣味・嗜好・興味」から見てゆこうという方向性で、バトンを製作しようとしています。
(「女性バトン」について検討中。/嗚呼女子大生活*コメント欄)

 わたしはジェンダー論に関してもフェミニズムに関しても、直接的にはそれらに対して、特に強い関心をもったことは実は無いです。ただ、そうしたことを中心に書かれた書籍などというものを手に取らなくても、自分の性を見る見つめる考える機会はあると思う。それは自分の性というものは、自分から引きはがすことはできないと思うからです。影響を与えている部分というのはあるだろう、意識無意識関係無く。
 たまたまはてなブックマークがぽんぽんとつきやすいものだったんじゃないか、的な話題を取り上げた時期が、chidarinnさんがはてなブックマークを材料に行った調査の時期とあたった。そしてわたしはchidarinnさんと、彼女からのトラックバックというノックを受けて出会った、と。
 この人はどんな人だろう、と過去記事をあさる。そこにはこの方が自分自身に対して向ける洞察があったということ。そしてその記される様々なものに現れるエネルギーに対して、わたしは魅力を感じたということ。魅力を感じたので、これはこれは? と、もっともっと、と、思ったということ。これが「ねえ」のきっかけになると思う。
 彼女の調査、彼女の見たいものは何か、その彼女の見たいものはどんな方法で得られるのだろうか。
 そこで思いついた、いわゆる「女性バトン」というものは、思いついて考えていくと、自分自身も関心があるものなのだ、という自分の中の興味に行き当たったということ。
 自分が生きてきた中で関心をもったもの、好きという感覚をもったもの。その中からあえて女性をピックアップしたときに、自分がとらえる女性性というもの、その糸口になるようなものが見えてくるのではないか、と思った。意識して女性を選ぶのではなく選んだものの中で、自分に残った、残り続けているもの。その中で女性を抽出したときに、その中に潜む自分が選ぶ、選びとる何か。
 他の人がそうして選んだものには、もしかしたら自分が未だ発見していないものがあるのかもしれない。そしてそこに自分はどうとらえるのか。共感なのかそうでないのか。またどちらの場合でも、その感想をもつ自分に関して、自分はどう考察するのか。そんなことにもわたしは関心があるのだと思う。
 このコメント欄で出てくる「作家」に関しては、わたしは作品を生み続けているその人にどんな関心をもつか、という感覚でとらえていました。好きというからには、作品を複数読み、その作家に対しての印象のようなものをもっているだろう、その印象とはどんなものか。それはその印象を感じる自分自身の洞察なのではないかと思う。
 そうやって洞察するものに、男性女性という性差をこだわる必要はないのではないか。という考え方はあると思う。でも、こだわるのではなく、範囲を女性にもっていったときに、そこに見えるものは何か。そのことにわたしは関心をもつのだと思う。