リツエアクベバ

satomies’s diary

「あの人キライ」について

 はてなブックマークの数に加えて、RinRin王国のリンクも加わり、なんというか大反響。個々の方の経験の感覚を呼び込んで伸びてるアクセスかもしれないと思う。
 いじめを語る、というかなんというか、冒頭の□囲みで書いた内容は、自分が嫌いな人をイメージして自分の中から拾い出したものをデフォルメ。以前どこかで「加害者視点で語るものが無い」とあったのが印象に残っていた、ということもあると思う。
 自分の中に溜まってしまうものの排出。「うんこ排出」と出したのは、実際こういうシチュエーションでは、わたしは「うんこ」という言葉を使用しているケースはある。出さなきゃいけないもの、いけなくなってしまっているもの、という感じには「うんこ」という言葉は自分にとってぴったり来る。
 ただ、「うんこ排出」の難しいところは、やりようによっちゃ、「密室で誰かの腕を引っ張る行為」になりかねないことだと思う。また、人を選ばずところかまわずでは、今度は自分が信用されなくなる。とうとうと人の批判をする人の批判を聞きながら、(この人はわたしのことも、きっとこうしてどこかで話すんだろう)などと思ったことがある人ってのは、特に女性ならいるんじゃないかと思う。わたしは、そう思ったことがある。
 全ての人を嫌うな、みんなと仲良くしろ、っていう教えのようなものは、いわば非現実的なもので、人は人を嫌うのだ、ってことがまず大前提であることだと思う。そのときどう行動するか、ってことをなかなか誰も教えてはくれない。「仲良くしなさい」の連呼ばっかりじゃ、抜け落ちるものもあって、それは毒となって蔓延する場合だってあると思う。
 嫌うな、とか、仲良くしろ、とかってよりも、集団のもつ力ってもの、そのことの意味の方が重要だと思う。集団というものは陽や動の力をもつこともできるけれど、隠や毒の力を増大させる場合があること。
 誰かが誰かを嫌うときに、自分以外の人間を引っ張り込むと、自分の中に生まれる「嫌悪」は少し軽いものになる。引っ張り込む数を増やせば、その数に正当性のようなものを加えていって、嫌悪の後ろめたさはどんどん薄れていくんじゃないかと思う。ただその集団の一人一人にとっては軽くなったものが、反比例するようなパワーをもって個に集中される場合があることを、忘れてはいけないのだと思う。