リツエアクベバ

satomies’s diary

いじめに対しての感性のようなもの

#1450 「お笑い」「ドッキリ」の 公開イジメ /Voice of Stone

 もう20年くらい前になると思う。昼12時からの、今も続くバラエティ番組で。
 レギュラーメンバーが集まった中で、何が気に入らなかったのか、司会者が延々と陰湿にケント・デリカットを言葉の暴力でいじめ続けた。笑うというより唖然とするほど不愉快だった。
 しつこく続く攻撃に、ケント・デリカットはあたふたというか、おろおろというか、見ていてとても気の毒だった。彼の遠視のメガネにもその矛先は及び、そのメガネで笑いを取ろうとするのは見苦しいだのなんだのとねちねちと(と感じた)攻撃。
 誰もその流れを止める人はいず、おどおどとしたケント・デリカットの姿がわたしにはとてもきつく、この番組はもう見ない、と思った。それ以外、自分の意志表示なんてことはできないのだな、と思った。誰に対しての意志表示でもなく、自分自身を裏切らない、という意志表示のようなものだったと思う。
 そのことを話していたときに友人が言ったこと。ああいう場面ではたいがい片岡鶴太郎が上手に止めに入る。でもあの日のあの時間の鶴ちゃんは、心ここにあらずという感じでその場にいたよね、と。彼はそのコーナーのちょっと前に、「抱かれたくない男ナンバー1に数年連続で選ばれた」ということでさんざんいじられ、バラエティ番組であるにも関わらず、そんなネタにされてさんざんいじられて、自分の妻の立場はどうなる、自分の子どもの立場はどうなる、と、ぶつぶつぶつぶつと怒っていた。自虐的な笑いに転化できない、ってことでプロじゃない、って言う人はいるかもしれない。でも、彼の怒りに対して(そうだよな)とわたしは思った。でも友人の言うように、そういう状態じゃなかったら、彼ならあの流れを止められたかもしれない、とも思った。それを妨害したのは彼のタレントとしての力不足なのか、それとも、とも思う。
 見せる、ということに意識が無く、素の状態で勝手なことをしゃべり、そしてそれが見ていて快くないものだったということ。番組批判だの、タレント批判だのってことではなく、そこに自分がどう感じるかということ。様々に価値観はあるんだろうけれど、流れという中で麻痺したくないものは麻痺したくない。空気を読めないと言われても、自分が認めたくないものは認められない。