リツエアクベバ

satomies’s diary

バリアフリー講座

 26日にホテル・トラベルってのに関しての専門学校のバリアフリー講座に呼ばれて簡単な話。全10回講座のうちの一回。知的障害者の理解に関して。資料を各種、山ほど抱えていって、まあその解説。それに加えて、接点をもつきっかけになる微笑みや単純な挨拶やら、会話のコツやら。支援者無しに会話する可能性があるだろう軽度の方に関しての理解として、全日本手をつなぐ育成会の本人部会が出版した、本人による弁が書かれたものなど。
 学生さんに、家族身内に知的障害者が存在する方はいなく、そのことに、以前だったら単純にそうだろうと思っていただろうに、今の自分は(珍しいな)などと思う、そんな自分というものを発見。
 質疑応答がなかなかおもしろかった。「僕の歩く道」や「光とともに」のシーンに関しての質問など受ける。テレビの効用を感じる。
 ほう、と思ったのは、「光とともに」で、母親が光に対して「かたづけなさい」と声をかけるのではなく、「かたづけます」と声をかけることの意味がわからなかったということ。おお、こういうことに関して、自閉を全く知らない人を置き去りにしていたのだなあ、などと思う。自閉のオウム返しなんぞを簡単に話す。
 障害体験、という用意された時間の中で、この講義の専任講師から用意された課題を実施。二人一組でペア。一人が軍手をはめた手で小さい折り紙で鶴を折り、もう一人がその様子を見ながら「遅い」だの「下手」だのとののしる役。その後、どう思ったかなどを発表、整理。
 この体験を行う間、順に回って学生さんたちの様子を眺める。素で鶴の折り方を知らない学生さんがいて、それはちょっと笑えてしまった。ああ、そうかいるかもねえ、などと思う。ほう、と思ったのは、折りにくい状態で根気よく上手に折れるやり方をさがす学生さんの様子。ののしらなくてはいけない役柄の方とわたしとで、思わず感心してしまって、黙って見守りの状態を無意識にもってしまう。
 ぐるっと回ってから講師の方に話す。ののしられるよりも日常で存在するのは、こういう類のシチュエーションに関しての、雄弁な「無視」だと思うよ、なんぞと。雄弁な冷たい無視や、小さな舌打ちやため息とか、鼻で笑うような小さな鼻息とか。こういうのがきついと思うよ、とか。
 学生さん、という立場の方に話すときにいつも思うこと。この中の誰かがいずれ「友達の子どもが障害児として生まれた」ってことと遭遇するかもしれない、と。そのときに、この友達にそのことを話せてよかった、と思う人になってくれればいいな、ということ。なにたいして難しいことでもない、そういうことがあるんだ、そういう人がいるんだ、ということを知っているということだけで、反応として与える感触はちがうんだろうと思う。