リツエアクベバ

satomies’s diary

hatayasanからTB受信

 ■[society]募金活動に覚えた違和感とは/忘却防止

 いわゆる感動ドラマ、というもの。gooの方で幾度かこうしたものに関して取り上げているのだけれど。まあ「泣ける」という表現をつけて、こういう類のものを好む方々はいるよな、と思う。
 10代のときに、山口百恵主演の「赤い疑惑」というドラマがあった。病院での事故で放射線を浴び、白血病に罹患するヒロイン。恋愛関係を育んでいく恋人は、実は異母兄。恋人の父親の不倫相手がヒロインの父親の妹という設定で、実子の関係とヒロインが信じ込んでいる両親は、実は養父母であった、という設定。
 ヒロインに数々の苦難が訪れるのだけれど、ここに出生の秘密なんてのがからんでくる場合が多々出てくる。異母兄と恋愛していることを両親は知ってしまっているのだけれど、余命を宣告されている娘に、そのことを知らせず、短い余命の間恋愛させておきたいという愛情?エゴ?。(エゴと感じたのは、この事実を知った恋人が別れを告げようとしたときに、余命の話をして「圧力をかけた」感じがしたから。)
 で、まあ、いわゆるゴシップ誌というのがこの関係をかぎつける。詳しく覚えてないけれど、ゴシップ誌のネタになるような地位の人が登場人物の立場として設定されていたからだったと思う。
 まあこういう危機に関して、宇津井健演じる父親の「涙ながらに隠された真実を話し、あの子はもう死ぬのだからあの子を守って欲しい」と言うパターン。
 感動どころなのかもしれないけれど、子どもの域を超えない年齢だったわたしは、しらけてましたね、この辺。葵の御紋のように、宇津井健のこのシーンで、周囲がわーっと善人になっていくのに、そうかあ?とか思っていたなあと。
 さて。子どもの病気に関して、支援をお願いするという類のものは、移植だけではなく募金だけではなく、いろいろとあるもので。こういう場合、その子を知ってもらう、というのがステップとしてあるわけです。理解してもらうために、まず知ってもらう、と。だから支援を受ける子ども自体の情報は、とても大切であったりする。
 ただ、こうした情報の提供のときに、周囲が感情のストーリーを付加しすぎていくことの弊害、なんてものも、わたしはあると思う。こうした勢いというものは、募金活動という、数字の目標がある場合の周囲の熱意やあせりで、露見していきやすいところはあるだろうな、とも思う。その付加されていく「色」は、善意を力づくで誘導されていくような流れに感じる人も、実際存在すると思う。
 その上で、こうした支援お願い活動に関して、どう接点をもつかもたないか。これは話題に関しての自分の「縁」なんてものが関係してくると思うんですよね。近い人間は近い分、縁を感じるだろうし、輪を広げていく中で、支援者と接点がある縁なんてのもあるだろうし、子をもつということ自体に縁を感じる線なんてのもあるだろうし、その縁の持ち方感じ方というのは、もうこれは人それぞれなのだと思う。
 支援が必要な状態で生きる人は、それこそ、たくさんいると思う。その、現在見えるものたったひとつに、どう反応するか、ということだと思う。一時の注目を浴びやすい活動は、善意の踏み絵、なんてものを感じさせられる要素もあると思う。
 こうしたことを全て見通した上で、現在自分に見えている、ひとつの支援を募る活動を見たときに、そこに縁を感じるか感じないか。これは全くの自由だと、わたしは思う。この自由を制限するような活動は、厳しい言い方で言えばあまり賛成しないよ、と思うのだけれど、それでも支援を募る活動というものは、その勢いが必要な場合もあり、難しい。だから自分がどう見るか、という自由は自分が守っていいのだと思う。ただし、その場合の品性はわたしは必要だとは思いますけどね。