下の子が幼児期の頃。幼稚園で一緒の子と午後公園で遊ばせているとき、一人の子が派手に転んだ。下を向きながら泣く。思わず駆け寄って抱きとめようとしたときに、この子の母親に制止される。
「その子、抱っこは嫌いだから」
わたしはなんか、びっくりしてしまって。抱っこが嫌いな子どもってのがいるんだろうか、と、漠然と思った。その子に関して、抱くのを嫌がる、抱こうとするのを拒否する、という話をそのまま聞く。その子の母親は、まだ幼い下の子を抱きながら、派手な転び方をした子どものそばに立ってた。わたしはその子の目の前で、その子の視線の位置にかがんでいた。
ずーっとこの光景は残っていて。そしてこの母親の位置、というものは、日常的にどこにでも見られるということに気づき始める。下の子を抱きながら上の子を見下ろし言葉だけをかける母親。上の子は遊んでいようが泣いていようが泣き叫んでいようがあまり変わりはないことも多く、上の子ってのはこうやって下の子が乳幼児期の間、見下ろされながらの叱責を受けて育つことは常態なのだな、とも思う。抱きながらかがむ、ということは姿勢として困難なんだろう。そして上の子ってのは、ずっとこの視線の位置を経験していくんだろう、と思うようになった。上の子は3歳なら3歳で見下ろされ、下の子は3歳になっても4歳になっても「先に抱かれる立場」を優先的に獲得しているんだろう。まあ立場的にそんなことを早くから経験していたら、それは抱っこが嫌いに、というか抵抗の大きいものに早くからなるかもしれない、ってのがあの日の光景の結論として出てくることになる。
例外は双子なんだろうと思う。年齢として二人の子どもは同位置にいるために、一人が当然のように我慢するということは起きにくいんだろうと思う。
ダウン症の上の子、障害を持たない下の子、という取り合わせだったわたしの子どもたちは、発達としては双子状態の時期が長かった。抱く、という行為に関しては上下関係なく必要度を優先することになるし、抱っこを二人から要求されその必要度に差が無いときには、両手抱え、なんてのはよくやってた。これをやるには「子どもの抱っこを支えるウエストポーチ」は絶大な力を発揮する。オンブに抱っこ、なんてのも、日常でよくあったな、と思う。
まあそんな、双子もしくは疑似双子でない限り、通常は「下の子を抱いて上の子を見下ろす」ってのは、通常のごく普通の光景なのかもしれない。そして障害児のきょうだい児というものは、上であろうが下であろうが、この感覚を心理的に感じながら育つ要素もあるのだと思う。
リンクした文章、日本人との文化差にはふれられている。日本人のハグに関しての感覚。それに加えて、人との間にその人の心理的抵抗感をもつ「距離」に関しての個人差も関係しているようにも思う。
人にどこまで近づかれたら、人は不快に思うのか。
このパーソナル・スペース、人は親しいと思う人にどこまで近づくことができるのか、とも言えると思う。この「近づく」「距離を縮める」ために必要な時間というものが、妹や弟という存在をもつ子どもにとって、成長の中でその立場が影響していくのではないか、などとも思う。だいたい、不自然ではない「距離の飛び込み」ってのをやってくる人って、「上の子」じゃないこと、多いんじゃないか、などと思う。
ただ、親しい人間から得る身体的なコンタクトが精神を助けやすくしてくれる状況、ってことは、生育歴の立場なんか関係なく起きるのではないかと思う。母親からの抱っこを早くから敬遠しても、親しい人間や少なくとも恋人からの接触に抵抗を見せるわけではないと思う。それでも自分から手をさしのべてハグを求められるか否か、ってことには、上の子下の子って生育歴のようなものは、なんらかの影響を与えているんじゃないか、などと思う。
ちなみにわたしは「下の子」なので、ハグに関してはするのも求めるのも、基本的に「手が早い」、と思います。つらい話を聞くときには、言葉やうなづきよりも早く、肩や腕に、壊れ物をさわるかのようにそっと手をかけるといった行動の方が、思わず、という感じで先に出ることがある。それは身体的コンタクトの力を信頼しているからかもしれません。