検索ワードでたびたび入ってくるもの。「因果応報 ダウン症」。は?なんか用すか?という感じ。まあ検索ワードなんて何入れようと自由だけどね。
タイミング良く、リエが同種の記事上げ。
21世紀の今、障害は罰か?って話/atelier F.F. ゆうくんちの日常
「この子はこういう重い障害を持って生まれてきたのは、私達家族に降りかかってきたかも知れない悪いことを、全部一人で抱えてきてくれたのだと思っている。悪いことを全て引き受けてくれたんだろう。だからこの子に私達家族は生かされているのだ。」そう、障害児の母親が教えてくれたらしい。
(中略)
んじゃあなんですか?と。悪いことを全て抱え、引き受けた挙げ句が【障害児・者】って、何かの罰ゲームですか?と。それともお地蔵さんやら神様やらのように、「家族に災いが起きない様守ってくれている」祀られた存在ですか?と。
調子というか勢いというか、小気味良くて大笑い。因果応報やら「罰(ばち)」という言葉やらってのは、おどろおどろしい陰気な感じが漂うけれど、「何かの罰ゲームですか」ってのはストレートで笑えるね。そだよ、そだそだ。
引用はしなかったけど、リンク本文冒頭でリエが言うように、障害ってのがくっついてきたって親にとっちゃ子どもは子どもだよ。お地蔵さんでも天使でもなく、子どもは子ども。
っつ〜か、お地蔵さん持ってきたよ、この人は、って思った。オカシイ。「あなたのお子さんは天使です」だの「あなたは神様に選ばれたのです」な〜んてフレーズはたくさんあるけど、「お宅、お地蔵さんいるのよね」なんてのは、勘違いは勘違いでも甚だしくオカシイ。神様だの天使だのもってこられたら、はあとかなんとか、もうどうでもいいやって脱力感なんてのがわたしはあるが、お地蔵さん持ってこられたら、遠慮なく「いやいやいや、子どもは子どもだからさ」なんてことを言えるような気もするな。
ちなみにどんな美辞麗句を使おうと、子どもの存在自体に初めから役割を与えようとすることには、わたしは大反対。障害児のきょうだいを面倒見させるために生んだ次の子、なんてのは誰でもその問題性を認識するだろう。んじゃ、お地蔵さんだの天使だの神様まで引っ張り出すことがOKなのか?ってこと。子どもの存在自体に初めから役割を与えようとするってことがNGなのはどちらもいっしょなんじゃないかと思うんだけどね。
お地蔵さんだの天使だの神様だの、そんな美辞麗句くっつけていかなくったって、「あなたが存在して、わたしはうれしい」とか、そういうことでいいんじゃないかと思うんだけど。それで充分、世界は回る。
子どもは子どもだよ、個の人格は人格。こういうことを真顔で言う人は、個のアイデンティティってことの重要性を理解しないんだろうか。人間の存在自体に役割をつける美談ってのは、疎外の一種でもあると思うよ。