リツエアクベバ

satomies’s diary

常識的な安全と、紙一重のところに存在する危険と

 子どもたちを見てると、生きていることに安堵する。普通に日常を送っていることに感謝する。「常識的な安心」なんていう信頼が、ある日突然、自分の前で崩れるかもしれない、と。それがたまたま、自分は経験していないだけなんじゃないかと。
 子どもをどう育てるか、どうしつけるか、なんてことがある。教科書的な正解ってのは、それなりにたくさんあるんだろうと思う。
 でもね、本音でいえば、子どもなんてものは特に三歳くらいまでは、「無傷で生かしておくだけで精一杯」ってのが、かなり現実的なとこだと思う。
 這っているときは、誤って飲み込まないよう、小さいものが落ちていないか気を配る。ちょっとしたものだって、窒息で死ぬ場合がある。綿菓子を持って歩いていたって転んで死ぬ場合があるし、公園のベンチの後ろにひっくり返ったって枯れ枝で頭を突いて死ぬ場合がある。
 家で、たかだかおにぎりを食べていたときのこと。ふっと喉につかえて、目を白黒し始めた娘。気管が細いことの影響の可能性に緊張感が走る。足を持って逆さにして背中をたたき、小児病院の救急に電話を入れて指示を仰いだあの日の光景。娘が階段から転がり落ちたときに、わたしは臨月で容易に動けず、落ちていく様をスローモーションのように見たあの日の光景。娘の手を引いて、娘のペースでのたのたと歩くことを我慢できなくなった3歳児の息子が、あっという間に交差点を一人で渡ってしまったときのこと。交差点の向こうでしっかりと息子をつかまえていてくださるご婦人があのときにいなかったら、あのときの息子も充分危なかっただろうと思う。亡くなった姑は、孫達が「箸を持って歩く」ことを絶対に許さなかった。それは義妹が小さいときに箸を持ったまま転んで目の上を突くケガをしたことがあったから。その位置ってヤツは、本当に危険すれすれだったらしい。友人の子どもは生まれて初めての寝返りでおねしょシーツにくるまって窒息し、数分の低酸素状態から後遺症を持つ。ちゃんと医者に連れて行ったって、夕刻には脱水で死んでた我が子を発見した友人もいる。救急外来で帰されて翌日には急変し、肺炎で子どもを亡くした友人もいる。そんな運すれすれのような出来事は、できた母親かどうかなんて関係しないと思う。誰だって実はそんな危険すれすれにいるってこと。子どもを育てるってことにはそんなことが起きる可能性ってもの、本当に山ほどあると思う。知らないでいる安心、なんてこともあると思う。
 やっと、やっと、かなり手がかからなくなる年齢ってのに到達する。「常識的な安全」を信頼すればという前提の上で。しかしそこでその「常識的な安全」がある日突然、自分の子どものときだけに「順番」がやってきて、全て崩れたらどうしたらいいんだろうと思う。今「安全」と信じられているものが実は危険だったのだ、ってことは、いつも犠牲者と共に発覚する。その「犠牲者」の順番が自分に回ってこないなんて保障はどこにも無い。
 逝ってしまった命が残すメッセージに耳を傾ける。傷ついて消えそうな命から伝わるメッセージに耳を傾ける。人間は学習する力を持っているのだから。