リツエアクベバ

satomies’s diary

何を書くか、何が書かれているか

 昨日、自分が味わった情景の話を書いた。リファラで該当エントリのはてなブックマークから飛んできたアクセスに気づく。
はてなブックマーク > セックスなんてくそくらえ - ハッピーうどんサンデー
 ここでブックマークされてついていたコメントに(ふうん)と思う。(ふうん)と思って、急に、アレアレ、アレはどこにあったっけ、と、探しにいく。
流れてくる情報を、ただ次工程に流すのは凡人です。/あんたジャージでどこ行くの
 う〜ん、凡人かどうかってことは別として、書かれたものに関して個人のブログだからと全部同じ扱いをするのは違うと思う。日記、という形態を使って何を書くか。そこに何が書かれているか、というか。
 「セックスなんてくそくらえ」というブログに関しては、体験を書く、というよりは、体験をモチーフに情景を描く。読むのはその情景であるってことなんじゃないか、とわたしは思う。別に知人・友人に今日の話昨日の話を聞かせるブログじゃない。だからこのブログはセックスセックス叫ぼうが何をモチーフにしようがわたしは知ったこっちゃない。具体的に描かれるモチーフの中に情景を見るだけだ。
 数日前に書かれたもので「■海へ」というものがある。この書き手が、というか、この書き手が書く一人称がどこでどんな女性とどんな行為をしようが、わたしは知ったこっちゃない。それよりもここで出てくる「長く、冷たく、震えるような射精をしたのだった」というフレーズ。そこに人間の持つある孤独を思う。それだけのことで、でもそれはこの書き手の大きな特徴だと思う。そしてここに向かっていく全ての表現に対してある種の感慨を持つ。
 この書き手の描く世界に興味を持ち、検索エンジンが導き出す同じ書き手の「正午」という名前を使って書いた文章は、書評や翻訳文を含め全て読んだと思う。簡単なこと。このブログにリンクされているブログに飛び、そこで出しているHNを検索にかける。検索エンジンは、これとこれだよ、とわたしに道を開いていく。その見つけ出した一部を記載。

 過去に書かれたこれらの文章と「セックスなんてくそくらえ」の違いは、セックスという切り口を中心にするぞ、と、そういうことであると思うし、たかがそんなことだとわたしは思う。そこで妻が出ていったことを語ろうが、そのことに関してああだこうだ思う気はさらさら無い。それはこの書き手が孤独を語る切り口の一つであり、実際の体験なのかどうなのかは確認する術もないが、わかっていることは体験だったとしたら自身の体験さえも切り口として使っていくこの書き手の業のようなものを思うだけだ。そしてわたしは傲慢な読者であり、もっと書けもっと書けなどと思っているという現実。この書き手が書こうという意思を持つならば、その体験や体験と推測されることにに対してなんだかんだと思うことはあんまり意味がないように思う。わたしが読むのはこの書き手が描く情景であり、そこに存在する人間というものの姿の一面だと思う。