リツエアクベバ

satomies’s diary

書く人間の痛みを味わう

 森瑶子という人。「嫉妬」という作品で初めて出会う。確か初版の頃。読んでいて、書く人間の痛みを強烈に味わった記憶。さらさらとした痛み、どくどくと血を流すような痛み、かさぶたをひきはがしていくような痛み。

  • 情事
  • 嫉妬
  • 誘惑
  • 熱い風

 痛みを感じたのはこの辺まで、だったと思う。「夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場」というエッセイで、自身が受けたセラピーの記録を書く。母親との関係、自身の中の母親の存在。その問題性に気づいたときに、セラピーをやめる。つまり自分の傷の解決から「下りる」。解決したら書けなくなってしまう。書くことを選ぶ、と。
 この後からか、そのくらいからか、だんだんと「シャレたストーリーテラー」になっていき、軽く読める本はそれなりにはおもしろいが、痛みは感じなくなった。女かくあるべき、みたいなエッセイも、わたしには鼻白むものが多くなった。
 亀海昌次と共著の「おいしいパスタ」。文庫本では亀海昌次の森瑶子に対しての追悼文が載っている。亀海昌次によって森瑶子が語られ、そこには森瑶子の傷が浮かび上がる。つまらなくなったな、と思いながら森瑶子を読んでいたわたしには、登場人物としてすっかりおなじみだった「森瑶子が恋に破れた相手」が亀海昌次だという話が、亀海昌次によって語られる。ほんの小さな、でも大きな「傷」の種明かしのように。
 森瑶子が果てしない飢餓感をもって意識した年齢である「35歳」をわたしはもう超えた。数年前からまた森瑶子を再読。年齢を進行形で、また彼女の傷をさわってみる。読書というものは、書く人間の傷をなめるような行為という一面がある。
*関連リンク: ■痛みを忘れたあなたへ/セックスなんてくそくらえ