リツエアクベバ

satomies’s diary

本屋に行く

 本屋に行く。特に本屋に行きたかったというわけじゃない。隣接するスーパーに行きたかったから。駐車場に車を停めたから、同じ敷地内の本屋に「まあ行くか」という感じ。本屋に行く、というよりは、その本屋の2階にある弱小レンタル店がついに終わりになり、7月から別のレンタル店になるので、サービスデーなんてのがどうなってるのか改装の状態をちょっと見たかったから。
 本屋の店先に、弱小レンタル店のカードを持ってる人が新しいレンタル店の入会手続きができる「優待受付」なんてのがあった。手続きをし、千円分のチケットをもらう。本屋で本を見る。
 昔は本屋に行くのはけっこう好きだったな、と思う。帰宅する前の空間の時間を使うのに、本屋は格好の場所だった。
 今は、「ぶらりと本屋」ってのは、ほとんどしなくなった。子どもが小さければ本屋にいても落ち着かないし、学校に入れば母には門限がある。都合のいいことに読みたい本は本屋で探さなくても情報が入ってくる。1500円を超えていればアマゾンが家まで送料無料で持ってきてくれる。ネットで検索すれば内容だのレビューだのをいろんな人が教えてくれる。中身をちょこっと閲覧することも、本によっては可能になってる。「ナマ」で本をさわらなくても、中身はさわれる時代になったんだな、と思う。
 本屋に行くなら、でかい資本の本屋だな、とも思う。店舗が広けりゃ自然品揃えも濃くなる。町の本屋は「一般的に売れてます」商品の平積みと、雑誌と、なんだか何かをお手軽に教えてくれるような本ばかり。しかし自己改革本の類は多岐でそしてなんだかどれも薄っぺらいような気がするのは偏見なのかな。
 自己改革ってのは、教えてあげます本よりも、何年も自分の中に残り続ける本の中身が示唆することの方が大きいような気がするんだけど。示唆される中身、思考する自分、簡単には出ない答。そういう方が好きってのは結局自分の好みの問題で、さらっとお手軽に読んではいはい自己改革できあがり、って方が、商売としては成立しやすいのかもしれない。何冊買ってもやせないダイエット本のように。
 文庫本の棚を眺める。ミステリーと推理小説と、ペーパーブックのようなものと、流行りのもの。長年にわたり再版を重ねまくってるような本はあまりなく、あっても時代小説の類だった。特に日本の小説の文庫本は、雑誌のように、新しいものばかり。文学作品、なんてものを文庫で読んでいたな、と思う。川端も芥川も漱石も三島も太宰も、確かわたしはみな文庫で読んだんだよな、なんて思う。でもそうしたものが文庫の棚には見つからない。町の本屋ってのはこんなものか。それともここだけ特別そういう状態なのか。コミックスと漫画文庫のスペースはでかい。
 翻訳ものをちらっと眺めて、最初に目についたのがシェイクスピア。アンタってばすごいのね、いったい何年そうやって生き続けてるのよ、なんて思った。
 と、思いながら、ふと星新一の文庫を見つける。これはこれですごいよね、いったい何十年、気楽に電車の中で広げられるような位置を維持し続けているんだろう、と、尊敬のまなざしを向ける。でもさ、それでもさ、文豪のショートショート掌の小説 なんてのも、おもしろいよね、って思うんだけどな。無かったけどね。
 同行していた娘が児童書のあたりから嬉々として持ってきた二冊、ぬりえと平仮名練習ドリルを買って帰る。かなり時間をかけて選んだらしい。嬉々とした時間を持てた娘がちょっとうらやましかった。
*関連リンク:6/26日記(本屋が潰れるのは必然だと思う)/他人の不幸は蜜の味