リツエアクベバ

satomies’s diary

ネット上をぐるぐる。そして「正午」と「正午」。

 6月22日にあげた「どうするどうする」。どうでもいいような陳腐なタイトルが、こうやって改めてリンクするとどうにも恥ずかしい。でもまあどうでもいいといえばどうでもいいのだけれど。
 この文章に上げた「白痴の親」、見つけたのは自分のはてなブックマークのお気に入りにいれてある「樹の節」こと きをふしはてブ から。ちなみにきをふしはてブを「お気に入り」に入れている理由は、きをふし=お気に入り だから、以上。
 きをふしはてブにあった、きをふしコメント無しの「白痴の親」。コメントも無いし、きをふしはてブだし、「白痴の親」ってのが本当に「白痴の親」だとは思わなかった。で、飛んでびっくり、「白痴の親」ってのは本当に「白痴の親」の話だった。いや、厳密には「白痴」ではなく「痴愚」じゃないか、なんて思ったのは実につまらんことだけど読んで生まれちゃった思考。
 「白痴の親」が書かれたブログ、初めての閲覧の場所、だと思う。眺め回す。何言ってんだオマエ、と、マニアックな人には思われちゃうかもしれないのだけれど、わたしという人間の感覚の歴史の中で、石橋蓮司緑魔子の夫妻が作る世界や、劇場空間の一番後ろになる幕をがばっと開けて、テントの中で劇場空間を観る人間を置き去りに隅田川に向かって走っていく唐十郎だのを思い出す。
 石橋蓮司を思い出し、検索。っつ〜か、なんで「いしばしれんじ」じゃ変換されないんだ、と思う。軽い衝撃。石橋蓮司って、そんな存在じゃないと思うんだけど、ダメなのか。なんだか淋しい。
 で、検索して見つけた「石橋蓮司のページ」。第七病棟に関してリンク切れなのが惜しい。
 さて、「白痴の親」のブログ。日を変えて眺め回している間に、このブログの書き手である方にブクマされていることに気づく。ブクマコメント、「良エントリ」の一言よりも、そこに続いていく「読み物」と「文学」との違いということに関心を抱く。「白痴の親」でも出てきた「文学」。そして自分のエントリのブクマの数個下に、関連コメントを見つける。

この読者に限らないが、「読み物」(例:ラノベ)と「文芸」の違いを、今後の長い読書人生の為に、一度しっかりと考えてみる事を薦める。どちらが上か、ではない。どう違うか、である。何が語られているのか、である。

 うむ、勝手に受け取った宿題。簡単に連想すること。三浦綾子の文章で、出生前診断で妊娠中にダウン症が発覚した妊婦が、それを認めた上で出産を選ぶということを賛美したものがあったなあと思う。そして曾野綾子の「神の汚れた手」に出てくる、不妊治療の上で授かった胎児がダウン症であったとわかったあとの妊娠中絶が書かれた部分。この格差。後者の作品に関して、このダウン症がどうのという下りは、気の弱いダウン症の親にはわたしは薦めない。でも、わたしは後者の「作品」の方が好きだと思う。まあそれを証拠に前者は出典も忘れたが、後者は長年にわたり所持。共通しているのは「エピソードの一部」であって、何を書かれているのか、というよりも、何が語られているのか、という相違。中絶がどうのってことが問題じゃない、「何が語られているのか」ということ、そういうこと。そういや曾野氏は自身もそうである小説家のことを、ヤクザだのチンピラだのと書いていたなあと思う。
 このブックマークされた文章よりも、ブックマークにリンクされた文章よりも、このブクマコメントがおもしろかった。そういえばはてブのネガティブコメントがどう、という文章であちこちで読んだ気がするけれど、ここでのこの感想は、このブックマークされた人に対して「ネガティブ」なコメントということになるのか。その要素を省いて「このコメントはおもしろかった」とすることがいいのか。なんて思ったりする。それともこの程度じゃネガティブには入らないのか。この程度でもイヤな人はイヤなんだろうし、そうしたことを考えていくことは、誰にとって一番メリットなのかな、と考える。
 このはてなブックマークにより、id:noon75という方が「正午」を名乗ることを知る。(正午? 正午が名前って? それって、佐世保? でもこの人、ブログで東京って出してたし。)なんぞと思う。あの「正午」とこの「正午」は全然趣が違うが、歳月の経過の中で、あの「正午」がこの「正午」に変身していたのならなんておもしろいんだろうとバカな妄想。その妄想はブログを読みこんでいけば簡単に崩れるのに、そのままにしておこうと思ったら、一つのブクマコメントで打ち砕かれる。

佐藤正午 ホーム/目次
homepage3.nifty.com カテゴリ 一般 詳細 1 user 追加日 2006年05月11日
ペンネームが私とかぶっている。知名度で抜かせていただいたあかつきにはご挨拶にうかがいます。私の「正午」は、どこにもない時間、朝と昼のはざまの一瞬、存在しない時間を象徴し「正午」と名づけたものです。

 あはははは、と笑う。「名」の認識では、わたし個人には歴然とした差があるのだけれど、はてな界隈ではすでに「知名度で抜かせていただいた」んではないか、などと思う。「正午がんばれ」などと思っても、多分、佐世保の正午はがんばらない。そういうとこがおもしろかったような記憶がある。佐世保の正午がこのコメントを見たなら、「かぶっている」という表現と、そして「抜いてる抜いてる」などと勝手に喜んで、それを飲み屋のねーちゃんとの会話のネタにしようとほくそ笑み、そしてろくに聞いてもらえもしなかったから意味が通じたかどうかもわからない、などと、もしもエッセイを書くのならそんなネタにするんだろう。
 佐藤正午作品リスト、この文庫リストを見ながら(「恋を数えて」までは読んだな)と思う。急に再読したくなって本屋に行ってみようかと思うのだけれど、なんだかもうそこらの普通の本屋の文庫本の棚には並んでないんじゃないかと思うのは偏見なんだろうか。
 試しにアマゾンで「佐藤正午」で検索。あらごめんなさい、買えるじゃないか、なんて思いながら、実は一番再読したかったものはユーズドでしか買えなくなってる。ほらね、ほらね、なんて、思うのは、佐世保佐藤正午のなんだかいい加減なとこが好きだったからだと思う。

私(わたし)の犬まで愛してほしい

 このエッセイ、なんたっておもしろいのは、「わけわからん息子がなんだか映画の原作者になって、そして「おらが町」が映画のロケ地になって、ひどく平和にはしゃいでいる田舎のオバサンとその息子の、激しく差があるテンション」だと思う。章のタイトル見るだけで中身と表現さえもが思い出されるので、ユーズドで買おうかな。