There is no Mother./「で、みちアキはどうするの?」
あれやこれやと話題になってるようだけれど、全てを閲覧しているわけでもないのだけれど、この文章は共感。そしてコメント欄の yuki1976_2 さんのコメントにも共感。
わたしは実生活の中で、中絶とその背景の展開なんぞを聞くときに、そのときに応じて言うことを変えるような嘘つきです。いや嘘つきというか、当事者以外何も言えない線というのが現実に存在すると思うので、基本的には黙って聞く。その上で何か言って欲しいと相手が願うなら、相手が言って欲しいだろうと思うことを言う。だから嘘つき。厳密に「嘘」かどうかはわからないけれど。
中絶を選択し、その選択の傷にうちひしがれるようなときには(たいがいコレがとても多いと思う)、こんな言い方なんぞをよくします。「人間というものは、何かの命を殺しながら生きているものだ」。
この言葉が正しいかどうかなんて知らん。わからない。でもそうしか言えないだろうなんてことは、いっぱいあるだろうと思う。
「わたしが育てるから生んでくれ」ってのは、一見美しいようで、ものすごく相手を傷つける言葉だなあ、なんてことも思う。現実でこの会話を経験したケースを聞いたときに、「育てる」って言った人が本気だったからこそ、言われた人間を唖然とさせ、深い溝に陥れたというかなんというか、ってことを知る。そんなことされるくらいなら自分で生んで自分で育てるよ、と。そんなことを言ってまで、自分の選択を長きにわたって責め続けるのか、なんてことになってしまうということを、わたしは知ったなあという記憶。一見受け入れているようで、相手に「アンタに裁かれる」という感覚を長きに渡って与え続けそうな危険というかなんというか。
中絶という選択肢が出てくるような妊娠というものは、そこで生むことを選択する場合は、いろいろな支援を必要とするケースだと思うわけで。そこが重要で、それは「替わって育てる」ということでは解決しきれないんじゃないか、と思うのが正直な実感。