リツエアクベバ

satomies’s diary

教育の現場と保護者とのコミュニケートの重要性

 文中に挿入した訴訟の話。本当に小さな記事だったけれど、その子どもがどんな様子だったのか、なんだか想像がついてしまってつらかった。渦中の主人公はダウン症の男の子。「いただきます」という言葉は言えない、だから「…す」と言ったら「いただきますと言ったということにしていた、と。でも、この「…す」が言えなかったら給食を食べたらいけないという指導だった、と。
 この短い記述でこの子が「…す」と言う様が見えてくる。ダウン症の子は「語尾だけ言葉」ってのがよくあるわけで。「…す」「…ます」「ただきます」なんていう発展になっていくのが生活の中でよくあるのは、ダウン症の子の親なら熟知のことだろうと思う。そんなものが見えてくると、この子がどんな様子で何を考えていたんだろう、なんてことを思う。
 支援がなくてはあけられないパッケージをあけてやらなかった。これはパンの袋。給食のパンはそういえばビニールの袋に入っていた。この袋が自分であけられない。あけてくれない。それはやっぱりこの子は「禁止」と判断したんだろうな、なんてことを思う。
 「○○したら食べていいよ」と。これが本人がわかっていたのかどうなのか。それは全くわからない。全くわからないけれど、「○○したら」というif条件は、うちの娘は理解が難しい。これは障害特性ってのも関係あるかもしれない。「○○したら」という条件の理解が難しく、「○○しなかったらダメなんだ」と、その「ダメなんだ」というスイッチが入ってしまったのかな、なんてことを思う。うちの娘に関しては、まずこのパターンに陥ると思う。条件統制のこの条件が、この子には理解しにくかったのかもしれない、と。
 ただこのパターンの場合は、うちの娘は確実に「怒る」という表現をもって対処する。これはアイツのなんともエラそうな個性が表出されるパターンだと思う。ただし、黙って自分が我慢する、なんてことを選択するダウン症の子もいる。自我を塞ぐことで自我を通す、ってことがある。そのときに、その子どもの理由の推測なんてことよりも、「ダウン症は頑固だから」なんてフレーズを使われると、なんか(何にもわかっちゃいないじゃないか)なんてことを思うこともある。
 なんてことを、小さな報道記事に思った。何年も何年も経つのに、この訴訟の主人公であった男の子の気持ちなんてもの、表情なんてものの推測されるイメージが、ずっと自分の中ではなくならない。 
 本当はひどく簡単なことだったんじゃないか、と思う。ダウン症の子に「いただきますを言わなきゃ食べてはいけない」という指導をしたいときは、if条件や禁止を持ってくるよりも、そこにいる人間が大きな声で「いただきま〜す」と言って食べることを習慣として「見せて」いけば、やがて目標は達成する。ダウン症の子は視覚情報をよく取り入れる。模倣技術、なんてことがその実証として使われると思う。小さい子の親に理解しやすいように言えば、「歌を歌うことはできなくても、歌を使った手遊びを覚えるのはとても早い」ということ。
 何か、どこかで、コミュニケートがうまくいかなかった。その犠牲は子ども本人に向かってしまった。結局はそういうことなんだろうと思う、この訴訟。ただ、訴訟というトラブルになってしまったことを、この子本人が本意だったかどうかということはとても気になる。ダウン症の子は周囲の心的ムードをとても敏感に察知する、争い事を好まぬ子もとても多い。
 コミュニケートが難しくなってしまうケース、自分だったらどう対処するのだろう、なんてことをいつまでも考えさせられる、小さい報道から投げられた宿題。