リツエアクベバ

satomies’s diary

積み上げていく「力」

障害のあるなしにかかわらず、子どもは何かをしないと育たないのではないかと。
それが教育であり、療育でもあるのではないかと。
積み上げていく「力」コメント欄より、ネコバスさんのコメントの一部)

 これってさ、「ありのまま」と「その先」なんだし、「差別」とその周辺の中の「髪の毛を引っぱる子とその対応」、なんだよね。
 追い込みたくはないけれど、教育の力を捨ててはいけないと思う。
 「障害のあるなしにかかわらず」って意味じゃ、最近は、家庭の教育ってのが存在しないんじゃないか、って感じの「野生児」も多いよね。年齢上がればわかるはず、って視点もあるのかもしれないけど、わかる視点ってのの「仕込み」も教育には必要だと思う。
 でもね、教育されてない野生児、って要素はわたしにもあって。集合住宅の二階に住んでいたときに、遊びに来ていた友人二人に言われた、「これだから戸建て育ちは」と。
 つまりね、同じ団地に育ったというこの友人二人は、家の中を歩くときの歩き方に関して、しつけがなされているんだそうだ。その視点から見ると、わたしの家の中での歩き方は「集合住宅の二階に住む歩き方じゃない」と。
 いや、そんなあからさまにどたどたとは歩いてないんですよ。でもね、言われてみればその友人二人は、家の中での歩き方が微妙に外での歩き方と違うんですよね。
 まあ、大人がそんな歩き方でも下に響く音はたかがしれてる。でも子どものそういう視点の無い歩き方と、そのことに対してなされないしつけってのは、下の階の人間にとっては大きな苦痛となるんだ、と。そういうことを自分たちの団地に住む子どもたちは、どこの家でも繰り返し親が言い続けていたよ、と。で、それを子どもに諭すために、モデル行動としての大人の家の中での歩き方ってのがあったんだよ、と、この友人二人は言ったわけで。
 こういうしつけって、わたしの世代が子どもの時代には、まだ生きていたんだと思う。今はどうなんだろ。防音補強や、下の階の人の「じっと我慢」なんぞに支えられてるんだろうな、と思う。同様の歩き方のしつけをされている子どもや、そういう話はあまり聞かない。
 子どもに対しての、この「団地住まいの歩き方」なんてのが、建物の構造も変化してるだろう現在に必要なことかどうかってことは、すでに戸建てに住むわたしにはわからないし、そんな議論もとくに興味は無い。ただ、子どもってものに対してのしつけの幅はなんだかゆるやかになってきてるんだろうし、それが本当にいいことなのかどうかは、ちょっとわからないかな、とも思う。
 自分の親の世代は、「ダメなことはダメ」だったと思う。「ダメなことでも時々自分はOK」というモノサシは無かったと思う。でも自分含めて今の親ってのは「ダメなことでも時々自分はOK」ってのがあるからね、それでもって子どもに甘えてそんなとこを見せちゃってるからね。そういうのってマズいんだろうな、と思う。
 姑をこんな時に、思い出すんだけど。夫の家は姑の姑、つまり夫のおばあちゃんに当たる方がしつけにとても厳しかった、と。彼の家の子どもたちがみな「きちんとしてる」のは、姑のしつけってのもあるんだろうけど、このおばあちゃんの存在ってのもあったんだと。そんなことが根底にあるもんだから、姑は時々「がんばって厳しいおばあちゃん」をやろうとしてたな、と思う。基本は「甘いおばあちゃん」なんだけどね、時々、厳しいおばあちゃんをやろうとがんばってたな、と思う。