リツエアクベバ

satomies’s diary

知的障害と、支援と、友達と

 本文中に出した、小学生のときに同じクラスだった知的障害のある同級生。彼女は就学猶予により、2学年、年齢が上で。
 高学年になる前に、この子だけ第二次性徴がどんどん進んでいき、なんだかビビっていたような記憶がある。いや〜、周囲が4年生のときにすでに6年生のはずの成長、6年生のときにすでに中2のはずの成長。そりゃ、もう、体が違ってくるよね。違和感は大きかった。
 みんな仲良く過ごしましょう、ってことにはならなかったけれど、彼女が存在した、ということ自体は、わたしの中では大きいと思う。彼女に学んだことで娘を育てることに最も生かしたことは「地域で育てる」という重要性。なんだかんだ言ったって、この子のことを「町が知っている」ことの大きさというか。
 うちの小学校には障害児学級は無く、障害児学級は、電車で4つほど行かなきゃならなかった。一度、その学級に転校したことはあったけれど、なんだかよくわからないがすぐに戻ってきた。この時期に、放課後の教室で、担任とこの子の親が話していて、この子の親が泣いているのをうっかり見てしまった記憶がある。
 その学校、塾の友達がいたので聞いてみた、「なんとかっていう学級、どんなとこ?」
 塾の友達が屈託無く答える、「おもちゃがいっぱいあるんだよ、そのクラス」「いろんなことやってて、ちょっとおもしろそうなとこだけど、よくわかんない」。
 ふーん、なんて思う。あの子の親が泣いていたのは、なんでだったんだろう、などと思ったり、そこではあの子に「友達」はできるんだろうか、なんてことを思った。
 教室の中で誰かが教師に叱られると、決まってこの子が泣き出していた。「ごめんなさい、ごめんなさい。○○くんの分もごめんなさい」。
 ドラマだったら即美談エピソードなんだろうと思う。でもそういうニュアンスではない日常だった。これは教師がこの「ごめんなさい」を場に無関係な横やりと軽く無視していたからだと思う。教師がこの子のこの態度に対して「そうね」とか「そうだね」とか、「○○くんが考えている間、待っていようね」とか、そういう声かけがあり、それを見るのが日常だったら、また違ったかもしれないな、とふと思う。
 あれは教師にとって「邪魔な態度」だったんだろう。そしてそれをわたしたちは「見て」いたんだろうと思う。
 それでも、明らかに放置したということも記憶に無いし、彼女を担任した教師たちはよく関わっていた方だと思う。ただ、一つの学級に二つのクラスが存在するかのように、この子とわたしたちに対しての橋渡し的支援は何も無かった。
 まあ、この同級生、うちのお嬢に比べたら全然軽度だったんですけどね、今から思えば。
 実家に行くと、町をうろついているところに時々出くわす。何十年経っていてもわたしのことをちゃんと覚えていて、旧姓で呼びかける。そして必ず聞く「赤ちゃんはいるの?」
 結婚しているか、ってことは聞かない。子ども、欲しいんだろうな。
 学区の通常学級の小学校と中学校を出て、そのまま在宅。時々町をふらつく。これで何十年。通所や作業所に行かせる気は無いのかな、と、「親」に対してふと思う。大きな書店で指にツバをつけてページをめくりながら立ち読みをするのが、なんだか最近の日常になってしまっているらしく、それが問題になっているらしいと母が言う。
 支援から放置された人生のように思うけれど、結局のとこ、わたしに持てるのは単なる感想だけなんだろう。
 親も老いてきているから、あの子の人生はきょうだいの肩にかかっていくのかもしれない。商売をやっていて、それ以外にも昔からアパートをたくさん持っている家だった。今じゃバカ高い家賃が相場の地域だから、あのまま賃貸住宅をたくさん持っている状態だったら、マンションに建て替えなんぞしてるだろうし、家賃収入も相当だろう。恵まれた経済だけが彼女を支えていくのかもしれない。