リツエアクベバ

satomies’s diary

春の一日

 午前中から娘は障害児余暇支援事業へ。夫は自宅の裏と実家の裏を歩き回ってタケノコ掘り。わたしは実家の敷地に群生している野生の蕗をせっせと摘む。春の味覚。宅配便でわたしの実家に送る。
 夫と結婚して、春になるとタケノコと蕗をせっせと煮るようになった、春のぜいたくな味覚。野生の蕗のまだ若い茎は、皮をむかない。適当な大きさに切って大鍋でがらがらと煮る。そのままさまして苦味を取る、ほのかな苦味が残る。それを酒と醤油と砂糖で煮る、とてもおいしい。
 群生した野生の蕗、自分で取る、と言っても、いつも姑が出てきてくれた。「いいとこ取りなさい、ああ、それはダメだよ、こっちの方がいいよ」、言いながら結局全部姑が摘んでくれる。わたしはしゃがんで姑の手の動きを見ながら、そしてなんだかんだとおしゃべりを聞く。平和な日々だったなあと思う。
 今は姑はもういない。ひとりで蕗の群生の中にしゃがんで、せっせと摘む。「いいとこ」の選び方をもっとちゃんと聞いておくんだったなどと思う。姑の急逝のばたばたの中、フキノトウを取る時期を逃したなあ、などとぼーっと思う。
 夫がやってくる、「ああ、それはダメだよ、こっちの方がいいよ」「こういうところのね、葉の大きいヤツを取るんだよ、ああそっちよりもね、こっちの方が長く伸びてる、そっちはまだそのままにしておけばまた伸びてくるからね」。夫が姑の替わりのように饒舌になる。
 柵や垣根の無い私有地、最近いろいろな人が入り込んで蕗やタケノコをとっていくと、近所の人が教えてくれると義妹が言う。だからといって見張るほどのものでもないし、仕方ないんじゃないかな、と義妹が言う。入り込まれるという景色が人目につくことだけは不用心でイヤだねえ、などと答えるが、蕗の群生は誰かが入り込んで取ったって、取りきれるような量でもなく、まあそんなもんか、なんてとこに落ち着く平和。
 春の苦味の味覚。娘は蕗を煮たのがとても好き。こうした苦味がわかるほど大人になってきたのか、と思う。昨日の障害者手帳の更新のための知的能力の判定で、とうとうIQは20を切った。帰路、息子にふと「ちぃちゃんが重度から最重度になってしまった」とぽつりと言う。息子が「それでなんか変わるの?」と平和な顔で返す。ああもっともだ、そうだよ、ちぃちゃん自体は何も変わらない、ただ福祉の恩恵が少し増えるってことだ。日常には大きな不自由もなく、健康で生活を楽しめるしあわせ。
 午後、娘を早めに迎えに行く。明日は天気が悪そうだから今日、お花見。桜並木を眺めながらビールを飲む。季節を楽しむぜいたくだからね、こんなときには発泡酒じゃなくてビールだビール。おいしくてとてもしあわせ。
 「今日はエイプリル・フールだよ、嘘をついてもいいんだよ」と息子が言う。「ああ、そうだね」と答えて、息子に「大好き」と言ってみる。息子は真顔で、「ちがうよ、嘘をついてもいいってことだよ、そんなホントのこと言ったって仕方ないじゃないか」と答えるので思わず吹き出す。平和な一日。