リツエアクベバ

satomies’s diary

検索しまくり2

  検索ついでに、半年以上ずっと余韻というか思考というかが残りまくって、頭の中でぐるぐるしている書籍について書籍名で検索。アサヒコムや、ブック販売系サイトのレビューなんぞを読みつつ、個人の感想を読みたいと探す。
 あった、あった、これ個人のブログよねと開き、読む。内容というより、感想を述べる難しさ、与えるものが濃いということをめんめんと述べる、でも「すごい本なんだよ、これは」というのが伝わってくる内容に、ものすごく共感。ふと、下記のコメントを思い出す。

 しかし「無料の物には」というくだりは、特に感情的に書いたわけでなく、最近やはり「ブログ読むより本を読んだ方がずっと良いな」と思っているのです。
 それは効率の問題ですね、「読むことで何かを得る確率」っていうのがあって、ブログを10時間読むよりも、本を10時間読んだ方が、何かを感じる可能性が高い。
 web上のコミュニケーションが同調をベースにしている以上、それはそうだろうと思うのです。「インタラクティブ」なんて今やあまり使われなくなりましたが、双方向性を持ったコミュニケーションというのは、同調をベースにした比較的つまらない物になりがちなのでしょう。
2/16日記(結局何が欠落しているのか分からないが)/他人の不幸は蜜の味

 ブログを読むことと読書は、やはり比較にならないほど読書で得るものの方が多いと思う。それは書籍というもののページに割かれる労力は、ブログのそれに比べて、比較にならないくらい大きいものだと思うから。特にこの書籍に関していえば、著者が費やしたエネルギーがずっしりと伝わってきて、おいそれと感想なんぞを書くわけにはいかなくなる感じがする。
 同調をベースにする、ということで、わたしはこの本のこの感想に「同調」し、共感を得て救われる。書評を仕事にする人だって、これだけ悩む本なんだ。自分の中にすっきりとした納得なんてものが、簡単にできあがるわけじゃない。この著者も、この書籍を書き上げるのに悲痛な苦しみを何度も味わったということがよくわかる。そんな書籍がおいそれと簡単に納得されるようなものであるはずがない。
 さて、この共感を得て救われたブログの文章の書き手、この名前、どこかで見たことがある。文中の「書評を書く仕事」ということで、変な言い方だけれど(どうやら普通の人ではないらしい)ということはわかったのだけれど、この名前、いろいろな場所で何度も何度も見た記憶がある。一番最近の記憶ってどこだったんだっけ。そうだそうだ、ここだった。この人、ブログ文章術の人だった。
 わたしが検索で引っ張り出したブログ、それはコレ。
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』を、/こどものもうそうblog
 タイトルが変、「を、」で終わっている。こういうタイトルをつける人なのかとトップに行ってみる。違う。これは意図的なものだ。そうかそうか、と、タイトルにさえ共感する。

重く、複雑な問題を投げかける本で、感想が書きにくい。読んだ人と感想を語り合いたい。

 共感、共感、共感。ブログで書評出します、コメント欄に感想入ります、って感じの書籍じゃない。読んだ人と2時間くらいは軽く語り合えるような気がする。でもこんな読むのにエネルギーが要りそうな本を読む人が、簡単に周囲にいるとは思えないのがとても残念。内容が重いだけでなく、ページ数がものすごく多い、簡単にいっちゃえば、ずっしりと分厚い本なのよね。一言で言えば、そのずっしりと分厚い本の中に、いろいろな人の人生が重く詰まっている書籍だと思う。その中にはこの本を書き上げるというこの著者の人生も詰まっている。何人もの人の人生が詰まっていて、その人生のひとつひとつがとても重い。その中で「1人の人間の人生を幸せに終わらせた」内容だけが、一つの救いを与えているような気がする。
 書かれてから一年近く経過しているこのブログの文章、検索で出会えてわたしはうれしかった、という思いを伝えたくて、トラックバックしておきます。