リツエアクベバ

satomies’s diary

障害・障碍・しょうがい

 「知的障害」という言葉、娘が生まれた’91年時点では一般的な層に限って言えば「存在しないようなもの」という言葉だったと思う。’97年の暮れに横浜市に転居したときに、横浜市の福祉課で当たり前のようにこの言葉が使われていたことに、とても驚いた記憶がある。横浜市って進歩的だなあ、という感じがした。なんだかたった数年で一般的になった言葉という印象。
 ちなみに転居前に在住の東京都で使われていたのは「精神薄弱」。「精神薄弱」は法律用語として固定された言葉だったけれど、「精神が薄弱なわけではない」という反対意見も多かった。
 新しく出現していった言葉としての「知的障害」という言葉、とっても便利、とわたしは歓迎して受け取った。それは「便利」という言葉がとっても近い。
 それまでは「精神薄弱」という言葉を実際に使用することは少なく、「ちえおくれ」もしくは「精神発達遅滞」が一般的。そしてごく普通の人が「せいしんはったつちたい」なんぞと言いはしないし、言われても漢字を思い浮かべるのに数秒は必要だったんじゃないかと思う。そして「ちえおくれ」という言葉というものは、「精薄」より余程歓迎される言葉だったんじゃないかと思う。
 ダウン症ダウン症自閉症自閉症、そして原因不明の遅れをもつ子どもは「遅れのある子」なんて言ってたような気がする。わたしとしては、「で、それはなんじゃい?」と問われれば、娘の「ダウン症」というのは彼女のもつ状態が属する症候群の名前で、本人の状態としては「ちえおくれ」と認識していたわけで。
 ところが、「ちえおくれ」なんて言葉は、親が子に言ってもいけないような言葉、と解釈する人は多く、わたしが娘のことを「ちえおくれ」なんて言ったもんなら、すぐに顔をしかめられそうな感じがして「言うに言えない」感じは持っていたと思う。
 それに比べりゃ、「知的障害」というのは、親が子どもに使っても誰にも怒られそうにない。ああ、便利、便利。
 でも、「障碍」「しょうがい」という言葉の使用を推し進める層というのが出現してくると、なんとなくそれさえも誰かに怒られそうな気がしてくるから、不思議なモンだと思う。「障碍」「しょうがい」という言葉を推し進める層というのは、「障害」という言葉の否定から始まっているという印象がぬぐいきれないから。
 「知的障害」、「障害をもつ」っていうのは、「状態の説明」であって、その本人のもつ「状態」を言わなきゃ話が始まらんってことはいくらでもあるわけで、そのスタートで「なんとなく誰かに怒られそうな感」ってのは、それこそなんとなく居心地が悪かったりする。
 「障害」ってワードを駆使する文章がたくさん入ってくるブログなんだったら、まあ、そういった言葉の使用に対しての意志表明ってのを出してる記事が存在してもいいかな、と思ったのが記事上げの理由。