朝、ゴミ捨てに行く。出くわした近所のジジィとつまらないことでふざけあって遊ぶ。きゃーきゃーと笑い合いながら遊んでるところで、そんなことやってるとこを通り過ぎるご近所の方にご挨拶。
ちょっとどーすんのよ、あそこんちのヨメさんこの間不幸があったばっかりなのにジジィとふざけて笑ってるわよって思われたらどーすんのよ、どーすんのよ、とジジィを責める。オレに言うなよオレに、なんぞとジジィは返す。
そんなフザケあいをしながら急に真面目な顔で「ねえ」と聞く。このジジィんとこはおととしの秋に、このジジィの90代のお父様がご逝去されてる。
「ねえ。葬儀で集まる人は『日常』に帰るでしょ。残るモンは自分の『日常』が変わるってことだよね。だからつらいんだよね。」
「そうだよ」とジジィが答える。「日常が変わるってことに抵抗するような感じがあるだろ」とジジィが言う。
「そうなんだよ」と、わたしが答える。よしゃいいのにわざわざ痛い思いを反芻して、「もういない」ってことを日常にすることに刃向かってるような気がするんだよ、と、訴えてみる。
つらいかよ、でもな、しばらくそうやってやりな。薄れていってしまうんだよ、やっぱりね。だからおばあちゃんのためにそうやってな、つらいかもしれないけどな。
うん、わかった。そう言いながら帰る。帰りながらジジィの育てるプランター野菜を見る。おいしそうだ、またねだろう。そうやって、新しい日常は着々と形成されていくんだろうな。