リツエアクベバ

satomies’s diary

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 id:yas-toroさんからトラックバック。いつも反応、ありがとう。トラックバック記事に残してきたコメントをこっちに記載。目的は自分のための保存。

# satomies 『こんにちは〜。
トラックバックは「おねえちゃんの方」の記事に入っていたようですね。あけてみれば「息子の方」だったわ。
この二つ、構造自体は似てると思うんですよね。
人間関係にトラブルあったときに、どうしても、誰かの正当性、自分の正当性、なんてことばかり頭がぐるぐるする。
でも、人間関係の構造上、一番大事にしたいことってのが、その場の誰かの正当性ではないこともあると思うんですよね。
その辺を行動で解決すると、自ずと「自分の正当性」ではなく、自己の未熟さなんてものに、登場人物が冷静になったり、自省しやすくなったりするんじゃないかと、そんな風に思う。
人間誰しもまちがえる。でもそのまちがいに関しての考察はされても、その人間自体を大切にする視点ってのがあってもいいし、わたしはそういう考え方ってのが、結局好みなんだと思います。』 (2006/01/23 23:26)

# yas-toro 『何かトラックバックが変な事になっているようですが、はてなの仕様ですかね? う〜ん……まぁ、それはおいといて。

正当性ってのは確かに考えますねぇ。それを頭で考えるんじゃなくて行動に移すことで、肌で感じる事が出来るといった感じでしょうか。そういう意味では私は臆病なんだろうと思います。でも、子供の為には踏み出してみなくちゃいけないんだろうなぁとも思います。間違った行動で子供を傷つけたくないという怖さがどうしても抜けないんですけどね。』 (2006/01/23 23:58)

 「正しいこと」というのと「大事にしたいこと」というのは、一致しないときもあると思う。「正しい」かどうかはわかってる、その上で「大事にしたいこと」は何か、っていう視点が、わたしは大事なんじゃないかと思う。これは子どもに対してどう、というより、そういう風に人間関係というものは大事にされ、残っていくものなんじゃないかと思う。
「正しいつき合い」ばかりの人間関係はあんまりおもしろくないし、欠点の目立ちにくい人とばかりつき合うのも、あまりおもしろいもんでもないと思う。ある場面で目立つ欠点というものが人間という存在の中で「長所に化ける」ってことも、ケースとして往々に存在する。
 欠点を甘やかす、なんていう視点なんてのもあるけれど、だからと言ってそういう部分に「糾弾」ってことをやるのには、それなりの建設的なやり方ってのもあると思うしね。ともすれば精神的なダメージを与えることばかりが目立ってしまうのも、なんだな、と思う。そして「やる」んなら1人でやれ、つるむなよ。こういう行動に「同意」という数の力を加えていこうとするのはわたしは好きじゃない。息子には、自分の行動の「1」というものの大切さ、重要さをわたしは知っていて欲しい。
  >「間違った行動で子供を傷つけたくない怖さ」
 生活の中で「間違った行動」なんてのはたくさんあると思う。親が子どもに、大人が子どもにしてやれることって、「打率何割」のヒットで、もう価値があるもんなんではないかと思う。自分が大人になっていく中で出会った大人からもらったものというのはそういう割合のもので、その「打率何割」のヒットにインパクトがあれば、それは強く濃く、そして思考に影響を与えて残り続けるもんなんじゃないか、なんて思うのだ…。(ガキ共よ、未熟な母を許したまえ…)