リツエアクベバ

satomies’s diary

雑感

 「S嬢のPC日記」は、表ブログである。公開された場に、思考を刻む。その刻んだ思考、つかもうとするチャンスの意図、場を展開するその人間のプロフ的要素になるのが「S:今日の一言」、そういう構造を持ってきたように思う。
 わたしは自宅にネット環境を用意したとき、インターネットを機能的に使いたかった。しかし、ネット上で交流ができていく流れの中で、そのうちに遊びたくて遊びたくて仕方がなくなった。ネットで遊ぶという要素はとても楽しい。
 ただ、「遊び仲間」と「馴れ合い」は、違うと思う。「遊び仲間」はネット上での「遊び」を共有する。「馴れ合い」は、思考を出していくことに対する反応というものに勝手な方向性を作ってしまう。出した思考に対して自ずと反応が決まることを出す側が半ば自覚し、そしてその方向性通りに動いていく人間関係は「馴れ合い」だと思う。それはわたしは「友人」ではないと位置づける。「友人」というのは、出来レースのような対話に終わらない相手のことだと思う。「遊び仲間」は「友人」として成立することが可能だけれど、「馴れ合いの相手」は「友人」として成立するのは、わたしは難しいと思う。いや、わたしの個人的感覚、範疇、思考としては「馴れ合いの相手は友人として成立しない」と判断する。
 「馴れ合い」は楽しいのか。反応してくれる人間に対して、安心感と媚びが生まれるのが「馴れ合い」なのではないだろうかと、わたしは勝手にそう思う。はてなブックマークを見るときに、羅列されるコメント欄に、特定の相手に向けた馴れ合い的感覚を持つコメントと、わたしが感じるものを時々見る。閲覧する個人の感覚として、わたしはあまり好感が持てない。
 わたしは「代替怠惰」が好きだ。書かれていくことに対して、読む人間に対して「共感を試す」ような仕掛けを仕組むようなわかりにくさが好きだと思う。理解の道案内になるような表現を隠し、そして物陰から手招きをするように秘かに共感を誘う。思考の鬼ごっこ、共感の隠れん坊。それはそこに「遊び」の要素を生みだし、そしてわたしはそこで遊ぶ。わたしにとってはそんな位置づけの場になっていて、とても楽しい。もちろんそこで遊ぶことができるのは、文章を記し始める根底の要素の感性や思考に魅力を感じるからだと思う。