リツエアクベバ

satomies’s diary

大晦日のテレビ

 わたしは毎年紅白を見るんですわ。どんなに悪評が積み重なろうと見る。それは特別なステージに対しての特別なテンションを持つ姿を見るのが楽しいから。紅白に金かける小林幸子はあまり興味が無い。衣裳だけでテンション使いつくしている感じがして、仕掛けだけで終わる感じがする。精神的なテンションをわたしは見るのが楽しい。ので録画はしません、リアルタイムで見なければ臨場感のテンションを感じられる気がしないから。今、現在進行形で、テンションを保つ人間を見るのが楽しいから。
 合間の語りや企画はおもしろいと思うことはほとんど無いですね。たいがいにおいて上滑りな感じがする。もうコレはずっと前、子どものときからのような気がするので、これも紅白の特徴のひとつかもしれん。
 ただ、合間の「事件」としては、引退という大きな決断で最後の舞台として紅白を選び、そしてトリを飾ろうとしている都はるみに対しての紹介にアナウンサーが「美空」と口走ったものは、長く印象に残っていると思う。一度引退した都はるみが再び復帰したのは、美空ひばりが亡くなったときに「昭和が終わった」とされたことに対して反感を持ったことからという話。紅白という彼女にとっては大舞台と位置されるものに対して、しかも引退の前の最後の大舞台という大きな花道の中で「美空」が出たことに対しての大きな反感、そして美空ひばりが亡くなったときに自分が築いてきたものが、自分の存在が、「美空」の前でうち消されたような気持ちがあったんだろうと思う。こういう底意地を持とうとする人間の存在はわたしは好きだし、そのことを象徴させるような「事件」をリアルタイムで目撃したことは、記憶に強いと思う。
 と、言いつつも、去年からボビーは見る。録画はしない。だからボビーを見ている間は紅白は見ない。去年に比べて格段に忙しくなったボビー。去年積み重ねた練習を今年はしているのか微妙に疑問だった。「売れる」という飽食を続けているはずの、最近は「笑わせるあざとさ」が目立つボビーがどんな「舞台」を繰り広げるのかものすごく興味があった。
 人間が特別な舞台で見せるテンションを見る、という意味では、大晦日のボビーに、わたしはいたく満足。序盤、巨漢に押しつぶされそうになりながら、顔が死なない、「次」を作り出そうとするテンションに固唾を飲んで見守るという興奮。
 しかし曙。悲しいくらいにその体が汚らしい。売れっ子で飽食を続けた一年のはずのボビーの体はとてもきれいなことに比べて、曙の肉体はこの一年何をやっていたんだろうと思う。
 報道された曙のコメント「予想していたけどボビーは体力もあるし、みんなが思っているような芸能人ファイターじゃなかった。今日はボビーが上」。
 「みんなが思っているような芸能人ファイター」って、誰が「みんな」なんだろうと思う。そもそもボビーがあのリングに上がるきっかけになったのは、からくりTVでの挑戦コーナーのボビーの姿と闘争心と格闘技に対しての素質のようなものだったと思うし、このコーナーの発展で行われたからくりスペシャルマッチでホイス・グレーシーを、例え短い時間でも「本気の顔」にさせたような要素だったと思う。この頃のボビーをすごいすごいと思って見ていた人たちは、誰も「みんなが思っているような芸能人ファイター」なんて思わないんじゃないかと思う。去年の姿は「みんなが思っているような芸能人ファイター」だったんだろうか。曙にそう見えたのだとしたら、物事をちゃんと見ようとしていないなんてことを思ってしまう。一年の間に肉体をちゃんと作ることができず、体力自体が続かないというブザマさを見せるショーがやりたかったのか、なんて、これは残酷なコメントなのかな。
 どんな報道よりも、わたしはホイス・グレーシーのコメントを聞いてみたい。あの、挑戦コーナーで、芸能人チャレンジのつもりだった(推測)のが、自分を本気にさせ、その相手が試合として出場を二年続けている、しかも芸能活動を多忙に続けつつということ。そのことに対して、シロウトの芸能人(芸能人とも言えないような存在)だったボビーの「今」が、ホイス・グレーシーにどう写っているのか、わたしはとても興味がある。