「変」なのは、ダメですか?
社会もさ、こういう些細な『変』の存在に、慣れて欲しい。まあ、特にたいしたことでもないが、ちょっとわけわかんない行動をする人がいるぞ、と。そうした程度の『変』を、受けとめる社会であって欲しいと思う。
たかが「連絡帳に書かれた数行」に揺れた心。連絡帳に返事として書いたこと、ブログに「思い」として入れたこと、表現は全然違う。
「連絡帳」には「返事」として、「動機が判明していない意志的な行動を安易に消す危険」なんてことを婉曲に表現。これに対して「ふらふらと動くのではなく、確かに意志が見える動き方をしていますね」と返ってきました。まあ、ご理解通ったみたいでありがたいありがたい。
「変な行動」は目立つ。目立つから他者に覚えられる。覚えられるから、娘に何かあったときに確実に「目撃者」は存在する。わけわからん人間が娘に話しかけ、どこかに連れ去ろうとでもしたら、それはとても目立つだろ。そういう風に「有名になること」はそれなりに見返りがある。
あとは、周囲で日常的に出会う方々に「慣れて」欲しい。そうやって、「異質」は「日常」にとけ込んでいくものだと思うし、そうであって欲しい。とけ込んでしまえば「異質」は「異質」ではなくなっていく。新たに生まれる「異質」扱いをされる赤ん坊にも、生きやすい社会になっていくだろ。実際、「異質」を「日常」としてとけ込ませた経験のある人の懐は大きい。