う〜ん、「普通」という言葉に対してのものさしって難しい。その人がどんな生き方をしてきたかに、どうもからんでるとこ、あるかもしれない。
「障害」と「支援」と「自尊心」とって記事に出した「行動」も、同じ現場で同様のことを思う人がいても、実際に行動に移すかどうかってことで言えば、黙って感想を持つだけって人の方が「普通」だと思う。でも、わたしにとっては、あそこで行動を起こすことが「普通」だった。
一般的な「普通の線」を守ることが主体で生きてきた層というのは、「普通の線の中」にいることは大事かもしれない。でも、わたしは「普通に」育てられなかったのよね、親に。財力のある商店のお嬢様で管理主義的な母親にぎゅうぎゅうと管理され、地方都市に育ったわたしの母。彼女にとって「東京で暮らすこと」は「自由な都会」「決まり切った価値観からの解放」を意味したそうだ。その解放感は育児にとても影響していて、また二番目の子という「子どもに対しての緊張感の薄さ」からか、わたしは「普通はこうだから」「みんなはこうだから」と言われたことが一度も無い。ベースとして「普通じゃない」ことに対しての怖れが薄いのかもしれない。
高校のときに「バイトがしたい」と母に言うと、「学校で禁止されているからダメだ」と言う。「んじゃ学校に『いい』って言われりゃいいのか」と、担任を呼びだして個人面談をしてもらって許可を得る。うん、これは行動として「普通じゃない」と思う。しかしそれを聞いて「そうかそうか」と遠藤周作に「うちの娘をバイトに使って欲しい」と手紙を出した母も相当「普通じゃない」。それに「家政婦としてこき使うからすぐに寄こせ」と返事を出してきた遠藤周作も、やっぱり相当「普通じゃない」。この話に逃げを打ったわたしは「普通の10代の感覚」だとは思うけれど、後になってみれば終生「もったいなかった」と悔やむ話ではある。
同じ親に育てられても、姉の方が常識的であり、「普通」というカテゴリに属したい方だと思う。でも国際結婚をしていることは「普通」じゃないとも言えるので、やっぱり「普通じゃない」ことも好きなのか?よくわからない。しかし姉は長いこと、わたしのことを「珍種」と呼んでいたことは事実というヤツです。わたしが「珍種」なら、母も「珍種」だと思うけどね。