リツエアクベバ

satomies’s diary

わあ、びっくり

Blog向上委員会にリンクされてたわ。
沈黙のオーディエンスについて/Blog向上委員会
>アクセス数だけで満足できるならそれでいい。
うん、それでいいんだ、わたしは。
この「交流」って記事の反応、どうも違和感がつきまとう。
多くの感想は、書いた本人がどうしてもその反応を知りたいってことが前提のように思う。
ニュースサイトに被リンクってのを何度も経験して思うんだけど、いや経験させていただいて思うんだけど。
被リンクってのを知ると、「いってらっしゃ〜い」って思う、自分の記事に対して。
いろいろな人の目にふれるんだね、あなたの中のどんなとこを読む人は「見る」んだろうね、読む人は「感じる」んだろうねって。
公開した時点で、どこか自分の手を離れ、そこから発生するものがだれかと出会っていくんだろうと。
意図したことと違うところを「見る」人もいるだろ、ちらっと見て「読み捨て」する人もいるだろ。
一握りの人の記憶に残るかもしれないだろ。
でもそのポイントになる部分は、わたしの手を離れた時点で、わたしの手にはもう届かないものなんだという認識。
そして記事に仕込んだ思いというものがどこかの誰かの思いと「交流」していれば、それでわたしはいいんですよね、正直言って。
自分が読んだもの、そしてとても記憶に残るもの。
わたしはその文章の中に生まれているものを受け取る、感じる、考える。
それをいちいち書き手に返さなくてもいいと思う。
感じるものはわたしのものであって、その感じるものを発生させた提供者にいちいち報告する義務も無いと思う。
感じるものをうまく伝えられなかったり、また、わたしが感じたようには解釈されなかったり。そんな可能性だってある。
わたしはわたしの行動によって、わたしが感じたものが壊れるのはイヤだ。
ただ、その感じるものを発生させた「生み主」のまわりをしばらくうろついたりします。
「ねえ、もっとちょうだい。おかわりは?」という感じが近いだろうか。
そしてその感じたことを「こう感じた」と手渡したなら、どんな反応が返るだろうかと興味を持ったときには黙ってはいられなくなる。
でも、その興味が生まれないこともある。
その興味が生まれないからといって、最初に出会って感じたものを否定することでは「絶対にない」んですよね。
>アクセス数だけで満足できるならそれでいい。
うん、それでいいんだ、わたしは。
だいたい、今の平均的な数字だって、慣れないよ。
「一年です」って8月に上げた記事には「更新しないで305くらい」とかって入れたけど、最近は「更新しないで350」くらいになってるし、だいたい更新しなくたって、どこかの被リンクの余波的数字がどこまでいつまで残ってるのか、gooのアク解くらいじゃわかんないよ。
被リンクがあると、リンクしたサイトにもよるけれど、400から600だの、それ以上だのに跳ね上がる。
被リンクの余波もそろそろ終わったかなと思うと、ちょっとすればまた被リンクが出てくるし。
そしてその余波がいつまで続いてるのかよくわからない。
だから、正直言って、よくわからないよ。
300人がクリックしたなんて、わたしにとっては途方もない数字だよ。
いつか生まれるかもしれない「出会い」の可能性がその数字には「あるだろう」ってことしかわからないよ。
数字の大小は、わたしが更新を続けていきたいことにはあまり関係ないよ。
「目に見える」反応でうれしかったこと。
突然、未知のブログにトラックバックを入れて、その反応は無かったのだけど、ある日突然、そのブログ主のRSSがわたしのブログを登録した。
なんか、すごく、うれしかった。