リツエアクベバ

satomies’s diary

要するに、だからなんだよ、という話

 いや、タイトルは、書く前にたぶんそんな結論のことしか書けないだろうという予感。でも、ちょっと書いておこうかな、と思うこと。

言葉が場を作る/304 Not Modified

 いわゆる言及とかなんとかってヤツじゃなくて、単に思考のきっかけ。
 ダウン症の赤ちゃんのママになって間もない人の話を聞く。実生活でもネットでも、この機会は多い。保健所から、産院から、人から人へという伝達から、そうしたものを経由してくるくるとわたしの連絡先は流れ家の電話が鳴り、ネット上では自分が出した内容が検索エンジンに流れていく。
 相手の話を聞く。相手の話の中で、肯定的に見られるポイントを探す。その話の中で目立つこと、というよりも、たとえ目立たなくても探す。それは、肯定的ポイントで見られることがとても必要な時期だから。
 安心感を渡すことができるポイントを探す。それはその人によってポイントは変わる。でも、どんな小さなことでも安心感を渡すことのできるポイントを手渡すこと。それはその人が歩き始める力になる。
 ネガティブなこと、心配なこと。これは受容という姿勢であまり指摘はしない。ダウン症の赤ん坊の親になって間もないこの時期だから芽生えること。時間がたてば変わること。その時間の流れ自体の方が、時間の流れや生活の中で自然と変化していくということが有効なことで、途中でがたがた言われなくたっていいことは山ほどある。通らなければ進めない経過点というものは存在する。妙にしゃべりすぎてしまうことで、ダウン症の赤ん坊と出会ったばかりの頃に他者によって何かを「ふくらませられてしまう」ことはセーブした方がいい。ネガティブは必ずその人が乗り越えていくはずだと信じる。その人の個性をもって、また、生きた経過をたどるために必要なことでもある。時間はその人の時計の中で流れ、個人差は大きい。その時間の流れを有効にしていくために、ポジティブと安心感を渡す。ネガティブの否定ではなく。そのためにそのポジティブと安心感を渡せる材料を、相手の話の中から、相手の持ち札から見つけだす。
 この結果、赤ん坊のしあわせに向かっていく流れを支援していくことができるという可能性が生まれるが、そこで副産物として出現するものがある。それはその流れを支援した人間が「いい人である」という印象。
 実生活はいろいろある。隠していたって隠しきれない人間性なんてものがチラ見えの機会はたくさんある。しかし、ウェブ上で切り取られた「場面」では、出した言葉と「いい人っぽい感じ」だけがそこに残る。
 自分がウェブ上に残したものを見ると、時々とても息苦しくなる。自分が書き残したことに対しては、自分自身がその意図がわかっているから、それはそれでいいのだけれど、息苦しくなるのはそこに存在する「この言葉を書いた人間の印象」というもの。受容し、共感を渡し、無理のないヒントを手渡し、そして微笑んでいる印象を残す。
 こうした場面ではこれが自分の価値観では、作るべく流れだと思う。でもその印象が人物の印象にまで向かっていく流れ、それはなんというか、逃げ出したいような気持ちを持つこともある。
 あのね、たかがそれ、部分だから。人物像は作ってないけど、でも流れってのは作ってるから。嘘はついてないけど、計算はしてるから。
 だからさ、思うんだよね。ウェブ上ってとこに、自分が飛んだり跳ねたり騒いだりする場所って、わたしにとって必要なんだろうな、って。そうやって呼吸しながら、ウェブ上での生きるってのをやってるんだと思う。